光源氏の愛した地・塩釜の観光、旅行、歴史、自然、文化、祭り・イベントなど多彩な情報をお届けします。

光源氏の愛した地・塩釜とは?

 「源氏物語」は“光源氏”の恋愛を中心とした宮廷貴族の社会を描いた長編物語であり、日本文学の最高峰といわれています。
 その有名な物語の主人公「光源氏」 と「源融」 「塩釜」には どのような関わりがあるのでしょう。

光源氏のモデル 源融ってどんな人?

源融は「源氏物語」の主人公「光源氏」のモデルといわれ、今から千百年以上も前、塩釜の融ヶ岡に邸宅を建て、そこから見える千賀ノ浦(塩釜湾)の風光明媚な風景をこよなく愛したといわれています。

■光源氏が塩釜に住んでいた!

源融の屋敷「融公邸」があったとされる“融ヶ岡”
源融の屋敷「融公邸」があったとされる“融ヶ岡”
  今から千百年以上も前、西暦八六四年の平安時代、中納言源融は陸奥出羽按察使(東北地方を監督する役職)を兼務しました(遙任といい、実際には赴任しなかったという説が一般的です)。  塩釜の風光明媚な御殿山と呼ばれる塩釜女子高周辺に、貴族の屋敷がありました。古文書のいい伝えでは、源融もそのそばの俗に“融ヶ岡”と呼ばれる塩釜高校のあたりに「融公邸(とおるこうてい)」として屋敷をかまえたとされています。  そして、千賀ノ浦(塩釜湾)の風景をこよなく愛し、のちに、都へ帰ってからも、塩釜の景色が忘れられず、 「塩釜」を模した「六条河原院」を造ったのです。 (鹽松勝譜 巻之一)

それほどまでに源融・光源氏が愛した地「塩釜」は、どんなに美しかったことでしょう。

源融(河原左大臣) 源融(みなもとのとおる)
通称:河原左大臣(かわらのさだいじん)
弘仁13年(822) 誕生 父・嵯峨天皇の皇子 母・大原全子
承和5年(838) 源朝臣姓を賜る。正四位下(17歳)
嘉祥3年(850) 従三位(29歳)
斎衡3年(856) 参議(35歳)
貞観6年(864) 中納言、陸奥出羽按察使(あぜち)(43歳)
貞観8年(866) 「応天門の変」で源信と謀議があったと密告されるが無罪(45歳)
貞観12年(870) 大納言(49歳)
貞観14年(872) 左大臣(51歳)
貞観18年(876)

元慶8年(884)
門を閉ざして出仕せず
元慶8年(884) 陽成天皇の退位で即位を表明するが藤原基経に拒否される(63歳)
仁和3年(887) 従一位(66歳)
寛平7年(895) 8月25日死去。正一位追贈。「河原左大臣」と称される。(74歳)

源融が光源氏のモデルといわれる理由

なぜ源融が「源氏物語」の主人公「光源氏」のモデルといわれているのか? その理由は、「境遇が似ている」「舞台が源融ゆかりの地である」ことがあげられます。

■境遇が似ている

 源融は、父・嵯峨天皇、母・大原全子の間に生まれ、また兄弟も帝となった中で自らは臣下として仕えましたが、北家藤原氏に敗れて政治的には不遇でした。 須磨に流された光源氏と同じく、源融は、実権を握ることができませんでした そして、光源氏と同じように、源融も評判の美男子だったそうです。

■源氏物語は、源融一族の物語?

源融一族の系図
  「源融」と同様に、光源氏のモデルといわれる人物は、「藤原道長」「業平中将」など複数存在します。「源高明」もその一人ですが、実は「源融一族の系図」にあるように、源融一族が世代をまたいで源氏物語のモデルになっていて、「源氏物語は源融一族と深い関わりがある物語ではないか」ともいわれているのです。

■源氏物語の舞台は、源融ゆかりの地

◆源融の山荘棲霞観跡「清涼寺」が源氏物語の「嵯峨野の御堂」◆

源融公墓所と恋の木
源融公墓所と恋の木
 嵯峨野の御堂は、源氏物語では光源氏が大覚寺の南に土地を求め、紫の上が源氏四十の賀を記念して薬師仏供養を行った所として出てきます。
 その嵯峨野の御堂が、源融の山荘棲霞観跡である清涼寺のことといわれています(境内にある宝篋院塔は源融の墓。その隣に光源氏ゆかりの「恋の木」が立っている。また「夕霧の墓」もある。
京都本覚寺に残る源融像
京都本覚寺に残る源融像
霊宝館(4~5月、10~11月のみ開館)に安置されている、国宝・阿弥陀座像は、源融の顔をモデルに作られたという。

◆源融が塩釜を模して造った「六条河原院」は、光源氏の住まい◆

河原院跡碑
 当時、源融が都の鴨川のほとりに、素晴らしい塩釜の景色を模した「河原院」という広大な庭園池と、屋敷を造ったということです。難波(大阪湾)より毎月(一説には毎日)、三十石の海水を運び汲んでその池に注ぎ「藻塩焼き」という製塩を行い、雅な塩釜の風景を再現し、楽しんでいたといわれます。  こうした振舞いから源融は「河原左大臣」と呼ばれるようになり、「庭に造った美しい塩釜の景色」の話は「伊勢物語」などにも取り上げられ、広く知られるところとなりました。 その「六条河原院」を、源氏物語に登場する光源氏の住まい「六条院」や、夕顔の段に登場する「某の院」のモデルにしたと考えられています。

光源氏の愛した地・塩釜

■京都に移された塩釜

◆塩釜という名のテーマパーク◆

 塩釜を詠んだ和歌は今も三百首以上残されていますが、当時の都人は単に塩釜の風景を想像したのではなく、源融によって「京都に移された塩釜 六条河原院」を眺め、遊んで、みちのくの塩釜を訪れたつもりになって詠んだのです。
 まさに「塩釜」という名のテーマパークだったわけです。

◆日本庭園のルーツ塩釜◆

 源融が「塩釜」という庭園を築くまでは中国式の庭園が主流であっただろうと想像されますが、「塩釜」という日本の風景をモデルにしたことから、日本庭園のルーツとも考えられています。

◆京都市下京区本塩釜町◆

 「京都に移された塩釜」の痕跡は、今も京都市下京区の五条大橋の近くに本塩竈町と塩竈町の名として残されています。  また、近くにある東本願寺の別邸「渉成園(しようせいえん)」は、この大庭園跡地の一部ともいわれています。江戸時代に復元されたもので、往事の規模には及びませんが、それでも二百m四方あります。
渉成園
渉成園

  今も「塩釜の手水鉢「塩釜の井」などが残り、その閑静な庭園は国の名勝にも指定され、京都のビル街の一角に、時を越えた美しい空間が広がっています。

■塩釜の金が源融の財力!?

◆塩と金のまち塩釜◆


渉成園
 西暦八六四年頃の塩釜は「国府津千軒(こうづせんけん)」と呼ばれる国府多賀城の港になっていて、海路で都と結ばれた軍事・文化・物流の拠点でした。塩釜は、古くから塩造りで栄えた町であり、食用はもちろん、軍事用にも大量製塩されていました。  また、源義経を奥州平泉に導いた金売吉次が、多賀国府のあたりに住んでいたと平家物語に描かれています。もしかすると奈良から平安時代にかけてあった「鳥居原古代市場(現在の塩釜高校校庭)」では、塩ばかりでなく、金の取引も行われていたのかもしれません。
 源融の母・大原全子の祖先は、百済王(敏達天皇孫)より出たと『新撰姓氏録』にはあります。日本初の金(宮城県内産)を献上した百済王敬福の一族と、あるいは関係していたのかもしれません。宮城の産金から莫大な財力を得て、大庭園「六条河原院」は、造営・維持されたとすれば納得できるところですね。
源融と塩釜の深い関わりは、物語や能、歌など数多くの描文献に描かれています。

■「伊勢物語」にみる源融

◆伊勢物語 「塩釜」 第八十一段 作者不明◆

 むかし、左大臣源融という方がいらっしゃった。鴨川の岸の六条の辺りに、家を風流に造って住んでおられた。  十月の末近く、菊の花がもう盛りをすぎて、紅葉も様々に見られるときに、親王たちをお招き申し上げて、一晩中酒宴を催して管弦を楽しみ、夜が明けてゆく頃、この邸宅の素晴らしさを讃える歌を詠み合った。  その時、そこに卑しい翁がいて、板敷の下を這い歩き、人々がみな歌を詠み終わってから詠んだ。
塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣りする舟はここによらなむ
【訳】
塩釜にいつのまに来てしまったのだろうか。 朝凪のうちに釣りする舟は、ここに寄って来て欲しいものだ。
と翁が詠んだのは、陸奥の国へ行って、山水の美に富んでいる所が多かったが、日本六十余州の中で、塩釜という所に似たところはなかったので、翁は、この邸宅を愛でて、「塩釜にいつのまに来てしまったのだろうか」と詠んだのであった。

■「能」にみる源融と塩釜

◆能 「融(とおる)」◆

   
汐汲みの老人が、源融の化身として登場します。

 都六条河原院で休息していた東国からの旅僧の前に、田子桶を担いだ老人がやってきて、私はこの所の汐汲みであるという。
 僧は都のなかに汐汲みが居るはずはないとなじると、「ここは昔、融の大臣(おとと)が陸奥の塩竈に模して造られた所だから、汐汲みといったのは当然だ」と答える。
 折から月が昇ってきたので、二人で籬が島の景色を眺め、また付近の名所を訪ね合い、さらに融公の故事を語り合っていた。
 やがて老人は水を汲むかと思うと、そのまま姿を消してしまった。

■紫式部の詠んだ歌

◆新古今和歌集◆

みし人の煙になりし夕よりなそむつまにしほがまの浦
死んでしまった人が煙になってしまった夕暮れ時、塩釜の浦の煙がどうして慕わしく感じないことでありましょうか。

■浮島は塩釜沖に

 奈良時代の女流歌人山口女王(やまぐちのおおきみ)が
塩釜のまへにうきたる浮島のうきて思ひのある世なりけり
と詠った「浮島」は多賀城の浮島ではなく、「馬放島(まはなしじま)」だったという説があります。

■美しいものの代名詞塩釜

 「塩釜」は、好奇心旺盛な貴族達にとっては、あこがれの地として「美しいもの」の代名詞となっていきました。  そして「浜で美しい塩釜」は「葉まで美しいシオガマ(花)」というかけことば掛詞から数多くの「花の名」となっています。
 たとえば、ヨツバシオガマ(中部地方)、ミヤマシオガマ(中部地方以北)、コシオガマ(日本全土))など十四種類に及びます。  そして、めしべが葉に変化した国の天然記念物「鹽竈神社の鹽竈桜」も「葉まで(浜で)美しい」という意味が込められているのです。
鹽竈桜
鹽竈桜
コシオガマ
コシオガマ

■源融の伝説

 源融は、陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、自分も皇胤の一人であると主張しましたが藤原基経に退けられたといいます。  融の死後、河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説などが「江談抄」「古事談」に見えます。この話が、脚色されて源氏物語の夕顔巻に使われています。

■東北で最も長い歴史のまち塩釜

 塩釜は西暦七二四年に国府多賀城が築かれた際、その港町「国府津」としてつくられたまちです。そのときから現代まで、港町・門前町として東北で最も長い歴史を積み重ねてきました。ですから源融の話も長い歴史の中の一コマにしかすぎません。  さあ、塩釜で千三百年の歴史を堪能し、そして京文化の源となったものを見つけてみませんか。
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参考資料
 ・花井滋春氏より平成19年7月ヒアリング (東北福祉大学 教授)
 ・菅原周二氏より平成19年7月ヒアリング (NPO法人みなとしおがま 副理事長)

塩釜商工会議所
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